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函館西高と『ラドリオ』

                          田澤 義公(文芸評論家 北村巌 18回生 )

 懐かしの函館西高を卒業して58年。わたしは上磯町(現・北斗市)出身でいわゆる汽車通学生であった。毎日早朝の列車に飛び乗り朝7時頃に函館駅に着き、朝市通りを海沿いにレンガ倉庫群を横目に歩いて通学した。三段の石畳をのぼりきると重厚な造りの旧校舎にたどり着く。もちろん現在は新校舎となり、わたしが通っていた当時の面影はない。ただ僅かに校門近くにある「志高く」の石碑が昔をしのばせる。これも時代の流れであり、すべては致し方のないこと。わたしはその校舎から、毎日港を眺めあの連絡船に乗って東京に行くことばかりを考えていた。もちろん、人並みに青春の痛みというか、悲哀はあった。しかし、もう半世紀以上も前のことで、青春の過ぎ去りし日々はすべてを美しくする。そんなノスタルジックな淡い物語を残せたのも母校・函館西高があったればこそであろう。さて、これから語ることは、わたしがこの函館西高卒でよかったと思ったことのエピソードである。

▲田澤義公(北村巌) 18回生
▲田澤義公(北村巌) 18回生
▲作家 佐藤泰志(18回生)
▲作家 佐藤泰志(18回生)
▲島木健作
▲島木健作

 1990年10月10日未明、衝撃的事件が起こった。西高同期の作家・佐藤泰志が自殺したのである。彼との様々な蹉跌(軋轢と屈折)について、わたしは既に「佐藤泰志論」として幾つかの論稿を文芸誌に発表してきたのでここでは語らない。ここでは彼の突然の自死がわたしの人生にとって一つの転機となったことについて触れようと思う。わたしはこの訃報を室蘭で知った。ちょうど人生の折り返しにあたる41歳の時であった。わたしはその頃、これからどう歩むべきかと悩んでいた。いわば人生の分岐点にいたのである。泰志死去の一報を受けてから、ほどなくしてわたしは上京した。泰志のお連れ合い(喜美子さん)に電話をし、「伺いたいのだが・・・」と了解を得て、国分寺の彼の自宅に向かった。喜美子さんとは、わたしが東京の大学に在学中に泰志から紹介され知人でもあった。彼女と泰志が中野沼袋で同棲したばかりの頃である。国分寺の自宅に供えられていた泰志の遺影に、わたしは絶句した。唯々、茫然と見つめるばかりであった。合掌とお線香をして、わたしのなかの泰志にお別れをして席を立った。

 北海道に戻る前に何年振りかの東京でもあったので、わたしはちょっと寄り道することにした。前から上京したら一度訪ねたいと思っていたところがあったのである。それは東大赤門前の古本屋である。詳しいことは省くが、そこにはわたしがずっと気にかけていた作家・島木健作が働いていた古本屋があったからである。当時、そのお店は島崎書院といった。もっとも島木が働いていたのは戦前のことであり、すでにないことは知っていた。それでもその辺りを一度探索してみたいと思っていたのである。この辺りかなと思っていたところに一軒の古本屋があった。名前は大山堂となっていた。わたしは恐るおそる大山堂に入店した。番台に気難しそうなオヤジが座っていた。一瞬嫌な感じがしたのでわたしは退店した。しかし、せっかく来たのだからと気を取り直し、本棚から一冊の古本を手にして、そのオヤジにおもむろに尋ねた。「ここ辺りに戦前島崎書院という古本屋はありませんでしたか・・・・?」と。彼は一瞬身構え、即答をさけた。「面倒なことを聞く怪しい奴」とでも思ったに違いない。それでもわたしはひるまず「島木健作の兄(島崎八郎)が経営していた古本屋で、島木が出獄後にその古本屋で働いていて・・・・」と質問をたたみかけた。手にもっていた購入するらしき古本が気になったのか、あるいはしつこい詰問に閉口したのか、オヤジは面倒くさそうな顔をして「ここは戦前その島崎書院があったところだ。島木健作のことを知りたいなら、神田神保町の裏通りにある『ラドリオ』を訪ねるといい」とふと漏らしたのである。あとから振り返ると、この一言がわたしにとってとても大切な言葉となった。わたしは早速神田神保町の古本屋街に向かった。 


 三省堂の裏路地にあった『ラドリオ』というお店をようやく見つけた。『ラドリオ』という洒落た喫茶店は、夜はお酒も提供するバーにもなっていた。『ラドリオ』はスペイン語でレンガという意味で、そのお店はレンガの重厚な造りであった。木戸の扉を押してわたしはその店に入った。お店は夕刻前でもありお客はいなかった。10組ほどのソファとテーブルが店内に並んでいて、カウンターには幾つかの止まり木の椅子があった。わたしはその止まり木の椅子にすわった。カウンターのなかには聡明な感じの女性が仕事をしていた。わたしは彼女にコーヒーをたのんだ。最初から取材めいたことを聞くと相手は警戒するであろうと思い、とりとめのない話題を投げかけた。彼女はそれとなく受け答えをしてくれた。 やがて、わたしはおもむろに「ここは島木健作ゆかりの場所と聞いたのですが・・・・」と切り出した。突然見ず知らずの人間にこのように問いかけられ、彼女は明らかに困惑の表情をうかべた。当然である。それでも幾つかのわたしの問いかけに、彼女は少しずつ反応をしてくれた。でもやはり警戒心は解かなかった。そのうちに彼女がふと微笑みを返してくれたようにわたしは感じた。あとで知ったのだが、わたしの言葉にある郷愁を感じたらしいとのことだった。わたしの言葉に函館なまりが混じっていたのである。別段意図してのことではない。わたしは札幌に住んでもう30年以上経つが、今も「お前はなまっている」とよく言われる。わたしはカウンターごしに彼女に「北海道から来ました。作家・島木健作について少し調べています」と語った。すると彼女は「あらっ・・・、わたしも北海道よ」と嬉しそうに返答してくれた。わたしは「今は室蘭で働いていますが、生まれは道南の上磯という町です」と言った。彼女は少し驚いたような顔をして「そう、私の卒業した函館の高校には上磯から通学していた生徒もいたよ」と返事をしてくれたのである。      

 こうなれば答えは一つしかない。函館西高である。当時は小学区制で、上磯郡は函館西高と決められていた。彼女は西高の先輩であったのである。偶然である。函館西高とわかった途端、彼女とはすっかり打ち解けあい、話が弾んだ。まず、その女性についてここで少し紹介しておこう。彼女の名前は臼井佳代さん(旧姓・津山さん)と言い、函館西高の五回生(昭和30年3月卒)であった。詳しいことは省くが、臼井さんは島木健作の遠い縁戚にあたる方で、その縁で『ラドリオ』を営ん(働いて)でいたのである。わたしはその時に臼井さんと何を語り合ったのか思いだせないが、一つだけはっきりと覚えていることがある。それは西高五回生ということは、かの北島三郎と同期であるということ。彼の本名は大野穣さんと言い、知内中学から函館西高に進学。世代は違うがわたしと同じ汽車通学生であった。臼井さんは有名人となった大野君(北島三郎)のことを嬉しそうに語っていたことを覚えている。人間どこでどんな出会いがあるかわからないものである。

▲▼ラドリオ店内。今も開店当時の風情が残る。


北村巌 文芸評論家。札幌在住。元大学講師。釜山の大学で客員研究員を経験。1994年「島木健作論」で北海道新聞文学賞受賞。著書「有島武郎論」(柏艪舎)、「金子喜一とその時代」(柏艪舎)、「大逆罪」(中西出版)他。

 今回の東京行きは、佐藤泰志との悲しい別れと臼井さんとの新しい出会いがあり、複雑な思いを抱いてわたしは帰路についた。自宅に帰って一カ月程して臼井さんから段ボール箱が届いた。そこには国書刊行会発行の『島木健作全集』(全15巻)が入っていたのである。この全集は当時もかなり高額であった。わたしは感激した。初めて会ったわたしに、こんな高価なものを贈呈してくれたことに唯々恐縮した。そして、同時にわたしは彼女のその優しさと好意にきちんとこたえていかなければならないと思った。わたしはそれから三年程かけて『島木健作論』(近代文藝社 1994年)を上梓した。「あとがき」にはもちろん、臼井佳代さんや『ラドリオ』のことについても触れた。この拙書がある幸運に恵まれた。この幸運がひとつの契機となり、わたしは以後文学にかかわることを生業(仕事)として今まで生きてきた。

 ちなみにこの『ラドリオ』は島木健作の兄(島崎八郎)が戦後に開店した喫茶店である。またここは、戦後直ぐに発刊された文芸誌『近代文学』(埴谷雄高や平野謙、小田切秀雄たち七人で創刊)の文人たちの集いの場ともなっていた。さらに語れば、島崎藤村の息子(蓊助)が文学者や出版社たちとの会合をいつも『ラドリオ』で行っていたと語っている。最近知ったことだが、批評家・有土健介によれば、わたしたちの世代に影響力のあった神津陽(2025年4月14日逝去)もこの『ラドリオ』によく通っていたとのこと。このように『ラドリオ』は文学と深いかかわりのあるサロンでもあったのである。そして、そこを営んでいたのが既報したように函館西高卒の臼井さんであった。その『ラドリオ』にわたしを導き、臼井佳代さんと引き合わせてくれたのが、佐藤泰志であり、そして函館西高であったとわたしは思っている。

 


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コメント: 3
  • #1

    照子 (水曜日, 25 3月 2026 11:29)

    地道な文学活動していますね。なかなか日の当たらない所にキッチリ焦点当てて頑張っておられる筆者さんと佐藤泰志さんや島田健作さんなどの様子を真面目に追われているのに敬意です。益々のご活躍をお祈りしています。

  • #2

    草取りじじい (日曜日, 26 4月 2026 13:34)

    茨木のり子の「鎮魂歌1965年」という詩集に、「ユリイカ」という文芸誌の編集人、伊達得夫(1961年没)を「昼なお暗い喫茶店ラドリオの隅で」と描写しています。
    そしてその前年の安保闘争で犠牲になった樺美智子さんに会われましたか、と問いかけ、温かい追悼の言葉として響きます。

  • #3

    札幌の西高OB (土曜日, 02 5月 2026 17:46)

    片岡義男著「珈琲が呼ぶ」の「ミロンガとラドリオを、ほんの数歩ではしごする」の中で
    1960年代なかば、狭い路地に斜め向かい合う2軒の喫茶店をはしごして原稿を書いていたという話がでてきます。