陳 有崎(18回生)
父の故郷、中国福建省を30年ぶりに訪問
今年4月初めに父の故郷である中国福建省福清市での「留日福建同郷懇親会」があり参加した。その大会は日本に居住する中国人の中の福建省出身者が、同郷人としての親睦を深め、日本と中国との友好親善を進め、平和で平穏な生活を希求するという目的で戦後、京都市で始まった。その後、毎年全国各地で開催され、今回は久しぶりに故郷での開催となった。
昨年暮れに大会事務局から案内が届き、まずは参加することに決めた。しかし、祖国とはいえ30年ぶりの外国旅行で、しかも現地集合、パスポートも更新しなければならず、旅仕度は何かと不慣れで厄介だ。航空チケットの予約から前後の宿泊まで、一人で段取りはできず、周りの社員や東京から参加する甥らの協力で、出発近くなってようやく手配が完了した。現地の気候も暑いのか寒いのか予測がつかず、何とか小さな旅行バックに下着などを詰め込み、4月1日、会話も覚つかない福建省へと大雨の成田から旅立った。
ところで24節気の1つ「清明」(チンミン)は、今年は4月4日に始まる。「万物に清新の気がみなぎる」時節ということで、古くから中国では先祖を偲んで墓参りするという風習がある。例年なら函館の中華山荘という中国人墓地で墓参するのだが、今年ばかりは場所を元祖、父の故郷での墓参りを、大会参加のおまけとして行うのも意義があるではないかと思った。

福建省は中国大陸南部、海峡を挟んで台湾と対峙
改めて、旅先の福建省について概略を説明する。福建省は中国大陸の南部に位置し、海峡を挟んで台湾と対峙している。卑近な比較でいうと岩手県の形とよく似ているのに気付く。岩手県の面積は1、5キロ平方メートルで北は青森、西は秋田、南は宮城に囲まれ、東は果てしない太平洋に面している。福建省は北海道の1、5倍の広さ、北は上海市という大都会をかかえる浙江省、西は江西省、南は香港や広州市といった大都会をかかえる広東省に接し、150㎞の海峡の対岸に台湾島が浮かぶ。岩手の宮古市の鼻先に淡路島を近づけたら、近似の姉妹省県になるではないかと想像してみる。
福建省の古名は「閩」(ミン)と呼ばれた、地図を見れば明らかで、平地は少なく、山脈が連なる山岳地帯と複雑に入り組んだ海岸地帯からなり、土地も痩せていて、山賊や海賊の隠家にはいい地形だったに違いない。福建省全域を流域とする大河が「閩江(ミンチャン)で、省郡、福州市を通って東シナ海へそそぐ。その福州市から南へ約50㎞離れて、福清市があり、更に南東へ50㎞程進むと父の故郷、官庁村がある。父の外国人登録の記録での戸籍は「福清県南門外」と記載されているので、福清市の南門を出てからの田舎村の1つが官庁村ということになる。
話しを旅の始まりに戻す。成田を出て約4時間のフライトで福州郊外の飛行場に着き、関係者の出迎えのバスで高速道路を通って1時間もかからず、会場となる高層ホテルに到着する。福清市は「玉融」とも呼ばれ、唐代からの歴史を持つ風光明媚な古代都市であり、また近代は新興海浜都市として発展しているらしい。翌日は、大会参加受付だけなので、朝からレンタカーを借り、甥の運転で、父の生まれ故郷官庁村へ行くことにする。中国では国土の隅々まで高速道路や高速鉄道が整備されているようで、走行した高速道路にはゲートは見当らず、無料通行なのだが、監視カメラによって制限速度は守られ、数㎞毎にカメラからフラッシュが発光し、これは居眠り運転の防止にもなっているようだ。道中の田園風景を見渡せば、土地はどうも痩せていて農作物は落花生やサツマイモ程度で辺鄙な海浜に近く、福清市から生活苦などで追い出された人々が、更に流れる先は海を渡って外国に行くしかないというのが判る気がする。




清明(シ―三―)の墓参り
いよいよ官庁村に入る。
父は5人兄弟で、長男はインドネシアへ、次男と三男の父、四男の3人が日本へ移民、末の5男が実家を守り、その息子が跡を継いで今に至っている。この実家は昔からの家で、この村で2棟ある歴史的建造物の1棟ということで保存する価値はありそうだが、水回りやトイレなどは別棟で、快適な住居とは言えないようだ。外壁はレンガ積みなので、函館の中華会館に似た雰囲気を漂わせている。30年ぶりの再訪なので記憶は曖昧だが、以前に比べ古民家は少なくなり、3階建のアパートと見まがう1棟家が林立し、しかも1人暮しの婦人が住んでいるということだ。夜になっても2階や3階は真暗で、田舎の変貌には驚かされる。日本のように固定資産税がかかる訳でもないようで、それで空家同然にしていても維持できるのかなと思う。
さて時節はもうすぐ清明だ、墓参りだ。墓地は、この実家から車で10分程の近くにあり、親戚の人に案内されて辿り着く。赤茶けた痩せた土地の一画、周辺は畑らしい。ウン!確かに30年前の記憶がかすかに想い出す。きちんと耕している様には見えない畑、墓所までの畦道は崩れそう、まばらに生える雑草、ゴミも所々散乱、昔と一緒だ。つまりは私たちが訪れる以外に訪れる人はいないということなのだろう。はるばる日本から墓参りに訪れるのを判っていながら、ゴミ拾い、雑草刈りも全くしないというのは、この田舎にあって、伝統的な生活、文化の要と思われた墓参りは、近代文化の大波の前に消え去ったのだろうか。
しかし、清明は祭日、休日として現実の生活に定着していて、日本のお盆休み同様に中国人民はこの期間、里帰りの大移動で交通は大混雑する。実際この大会に香港から参加しようとした人が、チケットが取れなくて断念したという話しも聞いた。清明という名だけ残って中味は消えたようだ。
かくして父の名が刻まれた墓参りは、供花も線香も、勿論供物もなく、唯、写真を撮っただけになった。ちょっと寂しいが、実にアッケラカンな気分になる。そして実は、父の名前が刻まれたこの墓には父の遺骨は入っていない。5人兄弟の名が刻まれているが、次男とその妻の遺骨だけは確かに日本から持込み、埋葬されているのが判っている。墓は1954年建立と刻まれ、また祖父の名前を含め全員が朱で色付けされてあり、建立当時はまだ誰も亡くなっていなかったと、考えられる。
大会の2日目と3日目は団体行動による観光、4日目は夕方の閉会式まで自由時間なので、メンバーを集って再びの墓参りと実家訪問を試みた。先日訪れた以外に2基の墓参りをした。その内の1基は墓標すらなく、ニンジン畑に囲まれ、ただ土で踏み固められた8畳程の広さの何もない地面であった。案内人がそこを指さし、「ここだ!」と説明してくれた。日本なら無縁仏でも何かしらの墓標があるのに、ここは全く無味乾燥なところで、どこに手を合わせていいやら、空を見上げてしまった。古い実家を守ってくれているのは有難いし、行く先々で響応してくれるのには感謝、土産に特産の海苔やお茶など貰い、人情味あふれる接し方には嬉しく頭が下がる思いでいっぱいだった。ただ、清明という時宣の祖国訪問、故郷探親である。乾ききった大地に、涙の1摘ぐらい落とすような想い出の旅にしたかったのであるが。
大会は予定通り無事終り、帰路につくことになる。三百名もの参加者がいたのに、搭乗する飛行機の都合に合わせるため、空港まで1人専用の車でホテルを退出した。大阪から参加した私の孫の世代にあたる若い女性が、手を振って見送ってくれたのが今回の旅でのいい締め括りとなった。聡明で快活、名は「アーリン」という。
旅の最後に沖縄に立ち寄る
福建から直行で成田には戻らず、沖縄には行った事がないので、2泊3日で立ち寄ることにした。故郷での親戚縁者との濃い交わりに疲れがたまるだろうからと、クールダウンに適した温泉とプール付きのホテルを社員が予約してくれていた。那覇の飛行場からモノレールとタクシーを乗り継いでホテルへチェックインしたのは暗くなってからの時刻。食事の為に外出したが、そこは国際通りの明るい賑いから、かなり離れた場末であった。怪しいネオンの下、お兄さんの呼び込みもあるなど、かまびすしい歓楽街を通らなければならず、ちょっと度胆を抜かれた。
数日間、日本語と日本円が使えなかったもどかしさから解き放たれ、翌日は予約していた観光バスに乗り、首里城、平和の礎、ひめゆりの塔などを1日中見学して回った。漫然と史跡を巡ったのだが、ガイドから説明を聞き、平和の礎やひめゆりの塔では、つい涙ぐんでしまった。車中ではガイドが三線を鳴らして「安里屋ユンタ」を歌うのを聴いて、また泣かされた。そういえば福建でのバス移動中はガイドの案内などなく、名所や施設の案内パンフレットなども目にすることもなかった。祖国は急速に全てデジタル化していて、紙の印刷物は無くなり、子供達は紙幣の人民元さえ実物を見ないで育っているらしい。お年寄りにはさぞ不便かと思うが。
那覇の3日目は函館へ戻る日。午後のフライトなので、午前中は時間潰しにフラリと付近を散歩することにした。観光客がよく訪れるという神社「波上宮」へまず行ってみる。隣が公園になっていて、幾多の碑文、記念碑が見られる。その1つ、「鄭迥謝名親方利山(1549~1611)」顕彰碑に出会った。紹介する。
「この地(久米村)に生まれ、父親は琉球王府の通訳で、わずか16歳で当時の明の首都であった北京へ留学、帰国して久米村の子弟教育の為、学校を建て、また琉球王府の使節で、明と往来、更に晩年は国政の高官に任ぜられ、「琉球人の自由と独立を守る為に、死を以って闘った唯一の人物であった」とされ、「謝名親方の政治信念は、当時の封建的な政治であった中において、民主政治の原点にたったものであって、為政者として、末代まで顕彰される可き琉球の誇りとする」と結ばれている。




福建省と沖縄の深いつながり
公園を後にしてホテルまでのほとんど人通りの無い帰路にまた1本の案内板を見つけた。
辻原 墓地跡(チージバルボチアト) ネットの検索でもすぐ出てくるが、要約すると、
「那覇の北西沿岸部の辻原にあった墓地群跡。岩礁台地が連なっていて、「閩人三十六姓」と呼ばれる中国からの移住者が「久米村」を形成し始めた14世紀後半以降から造られたと思われる。それ以外の村々の人々の墓も造られ、一大墓地地帯となっていた。1853年にペリーが琉球を立寄った時に「海上から眺めると所々に白い斑点があり、最初それは民家ではないかと思ったが、後でそれは琉球の墳墓であることがわかった」と『日本遠征記』に印され、戦前の研究でも、多種多様な墓の見本市のようだ、と述べられている。
更に普段は人気もなく、荒涼とした辻原も旧暦3月の清明(シーミー)の時期には、各々の墓に親戚一同集まり、墓前に重箱を広げ、賑わいを見せたという。終戦後の区画整理で一帯にあった千七百基余りの墓はすべて移転させられ、海岸段陵は削りとられた。墓石や石垣は埋立部材や道路整備に使われた。辻原跡地はその後、歓楽街として整備され、現在もその名残を留めている。70年前の区画整理という名目の歴史的文化財の破壊と歓楽街の整備とは、当然その対象は駐留米軍だろう。
何だ!今の辺野古新基地の建設と全く同じ組立てではないか。人魚が泳ぐ海を埋め立てるという自然破壊、埋立の岩石土石には沖縄戦で犠牲になった人骨も混じっているとも言われている。目的も米軍海兵隊が使用する基地だ。あまりの符合に鳥肌が立つ。
久米村に住居した中国人とは「閩」だから福建だ。父母が日本の函館へ移住した遥か大昔に、福建からの移住者が集落を作り一大墓地群を造り、清明(シーミー)には祖先を偲び、敬って来たのだ。1609年の島津侵攻に抵抗した利山も「閩」の流れを汲むと思われるし、福建と沖縄は強いつながりを持つことが判った。
今般、たまたま福建からの帰路、この時期、沖縄の地に立寄ったのだが、この地、この場に宿る地霊が私を呼び寄せ、供養の不足と記憶の喪失を時空を超えて訴えてきたのかなと考えてしまった。旅はどうも終わらないようだ・・・。
『book星の駅』第15号(2025年5月20日発行・星の駅舎)から転載
ブーゲンビリア (月曜日, 26 5月 2025 16:36)
他の人にはできない貴重な体験、祖国への旅を興味深く読ませていただきました。陳家の5人兄弟、一人一人がどんな生涯を送ったのか、思いを馳せてしまいます。福建省と沖縄のつながりも初めて知りました。地霊、地縁に人が呼び寄せられてしまうことはあるような気がします。