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最後の箱館奉行―杉浦兵庫 五稜郭の魅力再発見③

  上平 明 18回生

嘉永7(1854)年、幕府はペリーの来航やアヘン戦争など東アジアの激動に対応するため、再び蝦夷地を直轄地として箱館に2度目の奉行所を置いた。箱館奉行にはその任務の重要性から、初代の竹内保徳を始め、堀利煕、村垣範正、小出秀実、栗本鋤雲等々歴代幕臣のエリート達が任じられた。彼等は任期を終えれば江戸へ戻り外国奉行等に昇進するのが常であった。

 

杉浦兵庫は小出秀実の後任で11人目の箱館奉行として慶応2(1866)年4月22日箱館に着任した。着任早々、日ロ間の樺太国境問題や英国人がアイヌ墓地から人骨を盗掘し大英博物館へ送った事件など難しい問題が彼を待ち受けていたが、無事にこれらを解決している。しかし慶応3年10月徳川慶喜による大政奉還と同年12月王政復古の大号令により徳川幕府は廃絶となってしまった。

 

慶応4(1868)年1月3日に始まった鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗れた後、箱館と同様に遠国奉行である長崎奉行は奉行所を配下に託し単身江戸に逃げてしまうなど、国内は混乱していた。杉浦は江戸からの知らせと入港する外国船からの情報によりこれらをほぼ正確に把握しており、もし自分が支配下を連れて箱館を引きあげたなら、ロシアがロシア人保護の名目で蝦夷地に侵攻することを一番に憂慮し、江戸から正式に下知が来るまでは現状を維持し、一段と警戒を厳重にするよう部下に指示を徹底している。同年3月中旬になりようやく江戸から新政府への引き渡しの指示が到着した。

▲箱館奉行所の役人たち。前列右二人目が杉浦奉行。

    『杉浦梅潭   箱館奉行日記』所収

▼杉浦兵庫頭 杉浦俊介蔵 (函館市史デジタル版より)


▲復元された函館奉行所前の広場に展示されている写真パネル。右が最後の箱館奉行・杉浦兵庫頭、左は箱館裁判所総督になった清水谷公考。

杉浦は直ちに「朝命があり次第穏やかに奉行所を引き渡すが、引き渡しが完了するまでは住民にいささかの迷惑もかけないので、これまでどおり家業に専念せよ。」との触書を箱館市中に立て、民心の安定を図るとともに、最後の最後まで職を全うする決意を表明した。

 

新政府は同年4月12日箱館奉行所を改め箱館裁判所とし、公卿の清水谷公考を箱館裁判所総督に任命した。杉浦と清水の引継ぎは同年閏4月27日五稜郭で滞りなく行われた。引継ぎに立ち会った新政府のメンバーに箱館裁判所権判事の小野淳輔がいた。小野は自分が勝海舟の塾にいた当時から杉浦を知っていたと言い、杉浦が箱館を離れる前に送別の宴を開いている。その小野とは坂本龍馬の甥(龍馬の姉千鶴の長男)であった。

 

最後の箱館奉行杉浦と前任の小出については、作家の森真沙子氏(11回生)の小説「箱館奉行所始末」で生き生きと描かれている。

森真沙子ファン倶楽部ホームページ https://morimasako-world.jimdo.com/