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五稜郭の魅力再発見①―函館屋と函館氷

                上平 明 18回生(ボランティアガイド)

五稜郭は国の特別史跡(美術工芸品などで使われる国宝にあたる)に指定され、お城ではないが日本百名城の一つにも入っている。また以前民放テレビ局で実施した「お城総選挙」で堂々の8位(1位姫路城、2位大阪城、3位松本城)に入るほどであり、四季を通じ大勢の観光客で賑わっている。中でも春の桜の時季は特に人気で、五稜郭タワーに上るエレベーターの待ち時間が1時間になるほどである。

そのような五稜郭であるが、建設以来数々の歴史的秘話や五稜郭を舞台とした逸話が伝えられており、ボランティアガイドグループ「縁ジョイ俱楽部」では、観光パンフレットには載っていない逸話やこぼれ話を、訪れる皆様に紹介しながら楽しく公園を歩いている。以下にその逸話の一部を紹介します。

 


▲函館氷の広告(函館市中央図書館蔵)

▲▼五稜郭伐氷図(共に函館市中央図書館蔵)

      上の写真は、遠景に函館山が見える

▲中川 嘉兵衛(函館市中央図書館蔵)

 逸話その1 銀座「函館屋」の天然氷とアイスクリーム

 

明治9年に現在の東京銀座6丁目あたりに「函館屋」という氷水とアイスクリームで大人気となる氷屋が開業した。函館屋の主人は旧尾張藩の信(シン)大蔵であった。彼は箱館五稜郭で旧幕府軍榎本武揚の下で戦い負傷したが、なんとか官軍の残党狩りを逃れ、その後上京して函館屋を開業した。アイスクリームの作り方はともに五稜郭で戦った旧フランス軍軍事顧問団の士官から教わり、開業資金は旧幕府軍のリーダーであった榎本武揚から借りた。

 

函館屋で使う氷は五稜郭の濠で採れた天然氷であった。当時五稜郭が国内唯一の天然氷の産地で、亀田川からきれいな水が裏門側から濠に引き込まれ、現在の五稜郭タワー側へ流れ出るようになっていた。(その傾斜角はわずか3度であり、土木技術の高さが伺われる。)

屋号を「函館屋」としたのは、函館が天然氷の唯一の産地であり、大蔵の一生の忘れられない思い出の地であったからと言われている。

  

逸話その2 五稜郭で作られた函館氷

 

万延2(1861)年、愛知県三河出身の中川嘉兵衛は、医療や食肉保存で需要が高まっていた氷作りに挑戦を開始した。当時氷は、はるばる米国ボストンから半年をかけて輸入されており大変高価なものだった。そこで彼は国産化を目指し、最初に富士山麓で挑戦を開始したが失敗した。その後も各地で挑戦するも失敗の連続だった。

 

明治2(1869)年、富士山での挑戦から数えて7回目、ようやく五稜郭にたどり着いて天然氷の生産に成功することができた。函館で成功したのは、英国人のブラキストンが居留しており、その紹介で天然氷作りの技術を持っていた英国人ジョージ・ビューイック(豊川町で造船業と食肉販売業を行っていた)を雇うことができたこと。また、五稜郭は港まで3~4kmと近く、港に氷室庫を建設して氷を保管し、速力の早い外国船を使用して京浜地区まで短時間で氷を大量輸送することが可能だったからだ。当時の函館は、安政2(1855)年の開港で港湾が整備されており、既に毎年100隻前後の外国船が入港していた。

 

五稜郭で生産された天然氷は「函館氷」、あるいは「五稜郭氷」や「竜紋氷」と呼ばれ大変な人気に。明治7,8(1874,5)年頃には、日本中に「函館氷」の名前でかき氷ブームが起きた。函館氷はピーク時には年間3,800トンも生産され、日本国内のみならず東南アジアまで輸出された。天然氷は機械氷が普及する昭和の初めころまで続けられた。庶民は函館氷のおかげでかき氷やアイスクリームをいち早く味わうことができた。

なお、中川が創った横浜氷会社は、現在の株式会社ニチレイとなっている。