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八幡坂の想い出

陳 有崎(18回生) 

 

高校は、函館西高で八幡坂の突き当りに建っているので、この坂は通学路ということになる。教科書、クラブ活動の道具に弁当とやたら荷物が多く登校の坂道はきつい。遅刻しそうな、ぎりぎりの登校なので、その頃の時間帯は、玄関は混み合う。生活係が時間通り厳密に扉を閉ざすと、入れなかった生徒は遅刻と判定され、学生証を取り上げられ、担任から小言付きで返ってくる。しかし気のきいた生活係だと、直接返してもらうこともあった。 

 

坂道を男女の生徒がぞろぞろ登るのだが、時々すぐ前を美脚の女生徒が歩いてたりすると、何故か嬉しくなり、登校も苦にならない。今で言うストーカみたいものか・・・。その女生徒は同期だが、クラスが違っているので、在学中、1 度も声を掛けたこともないし、掛けられる事こともなかった。かなり後になって同期会などで会って、ようやく挨拶できるようになった。

 

同期会、クラス会というものは、利害関係なしの懐かしさで、気軽に言葉を交わすことが出来ると判り、私は率先して出席しているし、参加を呼びかけている。

 いつの間にか同期会の会長を引き受けて、約 10 年経った。その間 2 回の同期会を開催し、コロナ禍で様々な催物が中止され、さて最後の同期会は何時になるやら、と今は思案している。 

 

私は7人兄弟の末っ子で、兄や姉は長男を除いて皆西高なので、中学卒業後も、憧れの西高へ、迷わず入学した。しかし無事 3 年間で卒業したものの、卒業式というものに、1 度も出席していない。1 年生の時は、会場が狭いため、1 年生は参列しないことになっていた。2 年生の時は、いつもの様に遅刻しそうな時間に校門を潜ろうとしたら、友人が待ち構えていて、「知人の親の緊急手術の為、輸血が必要だから」と近くの市立函館病院へ連れていかれ、献血して生卵を飲まされた。運動部に所属していたので体力を見込まれていたらしい。

いよいよ 3 年生になり、本人の卒業式を迎える事になったが、何故か学校の式典に反抗したくなり、友人を誘って、仁山のスキ-場の山小屋で卒業式の朝を迎えることにした。卒業証書は後輩が、スキ-を担いで山小屋まで届けてくれた。生意気に母校と絶縁宣言した様なものであった。

 

卒業年度は 1968 年(昭和43年)、その前年から首都圏では、70 年安保闘争を見据えた学生運動がくり広げられ、10 月には羽田空港付近で、デモ隊と機動隊との衝突が、流血惨事のニュ-スとして、地方の高校生にも強い刺激を与えた。西高でも自衛官募集の為、現役自衛官が広報活動に来校すると言う噂が流れ、ベトナム反戦を考える有志らが集まり、学校側に説明を求める集会を開いたりしたこともあった。勉学を多少疎かにしても、こんな活動は当時の世相を反映してか、勝手に正義漢ぶって実に清々しい気分に浸っていたようだ。

 

一方、同期で小説家を目指していた佐藤泰志は、1967 年流血の羽田闘争などの学生運動を的確に捉え、「市街戦の中のジャズメン」を書きあげ、有島文学賞を受賞したのは、鮮明な記憶として残る。1 歩も 2 歩も前を行く同期生にただ驚嘆し敬服するのみであった。高校生活は、70 年安保の始まりにより否定され、海峡を渡り、上京すれば何とかなる、理想の社会改革に参画できる、と思い込んでいた。青年の特有の美しき妄想かと反省することしきりである。 

 

ところで、くだんの美脚の女生徒のことだが、昨年 8 月、東京で急逝した。菩提寺の高竜寺に納骨することになり、殆ど縁がないのに、私は焼香に参列させてもらった。コロナ禍中であり、参列者は高校同期の何人かと遺族の娘さん 2 人だったか、少人数の葬儀だった。弔いが終わると会話も無く、解散となり、美脚の面影を残す娘さんの後ろ姿を見届け、寺から退出した。 

青春の坂道での淡い想い出はかくして永遠に封印された。

 


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