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住吉共同墓地とその名を町名に残した時任為基(ときとう・ためもと)

                   上平 明(函館在住 18回生)

 

函館の時任町は函館出身者なら誰でも知っていると思いますが、その名前の由来は意外と知られていないのではないでしょうか。

時任為基(ときとうためもと)は、明治政府開拓使の役人として函館市庁長などを歴任した人物です。函館に居住した11年間に、函館市街の改正、函館公園の新設、函館競馬の基礎、函館町会所の建設、水道の建設、願乗寺川の埋め立、時任牧場(様式模範牧場50万坪)の開発などを行ない、明治初期の函館の開拓と発展に尽くしました。その功績をたたえて、昭和6年の町名改正の際に「時任牧場」にちなんで、跡地の一部に時任の名を残すことにしたといいます。ちなみ俳優の時任三郎は彼の子孫にあたります。

なお、時任家の墓が住吉町共同墓地にあります。為基の長女多摩子が建てたと推定され、多摩子の墓(明治15年死亡)と並んで建っています。ただし、為基の墓は、東京・北品川の旧東海寺大山墓地にあり、住吉町共同墓地には眠っていないと思われます。

▲左は時任家の墓 右は為基の長女多摩子の墓
▲左は時任家の墓 右は為基の長女多摩子の墓

▲函館市営住吉町共同墓地 

 写真提供/はこだてフィルムコミッション  

▲時任為基
▲時任為基

▲立待岬駐車場近くに建つ与謝野寛(鉄幹)・晶子の歌碑 ▼長谷川淑夫の碑
▲立待岬駐車場近くに建つ与謝野寛(鉄幹)・晶子の歌碑 ▼長谷川淑夫の碑

 住吉町共同墓地にはこのほかにも、函館の開発や発展に尽くした人々の墓があります。初代函館区長・常野正義、明治期最後の函館区長・北守正直、榎本武揚、大鳥圭介らと親交のあった俳人・孤山堂大塩無外、細菌学者・小池毅、函館戦争後の捨て子保育施設を造った槙山淳道と育児の墓、牛乳搾乳業・笹村惣助、啄木を支援した宮崎郁雨一族、ヘレンケラー女史も訪れた函館盲唖院を建てた全道盲唖教育の父・佐藤政次郎、心学道話を講義した代嶋剛平之、江戸湾のお台場や弁天台場の石垣工事請け負った初代備前喜三郎(五稜郭の石垣は2代目喜三郎によるもの)、北海道写真の祖・田本研造、東京以北を配下に収めた博徒、函館丸茂一家のドン森田常吉等々…。

 

さらに、この墓地から立待岬にかけては、与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻の歌碑や長谷川四兄弟の父としても有名な長谷川淑夫(よしお)の碑などもあり、帰郷の際はこれらの墓や碑巡りをするのも一興ではないでしょうか。

 

与謝野寛(鉄幹)・晶子の歌碑は、1931年(昭和6)に与謝野寛・晶子夫妻が来函し、講演を行なった際に夫妻が呼んだ歌が刻まれている。短歌には、函館ゆかりの啄木、宮崎郁雨、市立函館図書館の創設者であり館長でもあった岡田健蔵らの名が読み込まれています。

ちなみに、与謝野寛は本名で、鉄幹は号です。

 

また、長谷川淑夫(はせがわ・よしお)は「函館新聞」をおこし、ジャーナリズムで健筆を奮った硬骨の言論人です。長男の海太郎は「丹下左膳」で有名な大衆作家、次男の潾二郎(りんじろう)は洋画家、三男の濬(しゅん)はロシア文学者、四郎は作家・翻訳家です。碑に世民・長谷川先生とありますが、「世民(せみん)」は長谷川淑夫の号です。