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龍馬の従兄弟がハリストス正教会の司祭だった 五稜郭の魅力再発見④

                                                                                                                上平 明 18回生

 

山本琢磨(幼名数馬)は龍馬の従兄弟(山本の父は龍馬の父の実兄)である。武術に優れ江戸に出て三大道場の一つといわれた鏡心明智流の桃井道場でその腕を一層磨き、師範代を務めるまでになる。

ところが、ある晩、酒を飲んでの帰り道に拾った金時計を酔った勢いで一緒にいた友人と共謀し時計屋に売ってしまうが、それが不法なものであることが発覚して窮地に追い込まれる。訴追を逃れるために龍馬や武市半平太の助けを得て江戸を脱出し、新潟で出会った前島密に箱館に行くことを勧められ安政5(1858)年の春に箱館に着いた。

 

箱館では持ち前の剣術の腕が功をなし、それがきっかけとなって道場を開くと町の名士たちと親交を持つようになる。そんな中で知り合った箱館神明宮(現船見町山上大神宮)宮司の澤辺悌之助に請われて娘の婿養子となり、以後は澤辺姓を名乗った。

 

当時、箱館のロシア領事館には付属聖堂として箱館ハリストス正教会が開設されており、ニコライ神父が赴任していた。攘夷論者だった琢磨は異国の宗教を日本で布教するのはけしからんと、ニコライを殺害する覚悟で度々面会を重ねていた。しかし、ニコライの話を聞いているうちに彼に心服し、明治元年(1868)年、他の日本人2名とともに秘密裏に洗礼を受け、ハリストス正教会初の日本人信者となった。

 

その後明治政府よって布教が許されると、明治8年(1875)年、琢磨は日本人初の司祭となった。ニコライはその後上京し、神田のニコライ堂を建設して布教活動の拠点とした。ちなみに、現ニコライ堂にある大鐘は元々函館ハリストス正教会にあったもので、関東大震災でニコライ堂が崩壊し、昭和3(1928)年復興のために函館から移送されたものである。また、琢磨は新島襄が箱館から米国へ密航する際にも手助けをしている。

 

▲坂本龍馬の従兄弟、澤辺琢磨(幼名は山本数馬)。箱館神明宮(現山上大神宮)の宮司の婿養子となり、澤辺姓を名乗ることになった。

▲明治8年(1875)、琢磨は箱館ハリストス正教会の日本人初の司祭となった。