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五稜郭の魅力再発見②―箱館にやってきたフランス軍人

    18回生 上平 明(ボランティアガイド)   

逸話その3 フランス軍事顧問団副隊長ジュール・ブリュネ

 

 慶応3(1867)年、ナポレオン3世は開国した日本との関係を深めるために19名からなる対日軍事顧問団を日本へ派遣した。ブリュネは軍事顧問団の副隊長に選ばれ、フランス陸軍砲兵大尉として日本に到着した。

フランス軍事顧問団は横浜大田陣屋で幕府伝習隊を1年以上訓練したが、慶応4(1868)年の戊辰戦争で徳川幕府は明治新政府軍に敗北し、日本からの退去を命じられた。

 

しかしブリュネらフランス軍人10名は残留を選択し、フランス軍籍を離脱し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、箱館戦争に従軍した。 

ブリュネは陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を軍事的に支援し、また四稜郭の建設、宮古湾奇襲作戦などに参画した。

 

明治2(1869)年6月、五稜郭は陥落。総裁・榎本武揚らは新政府軍に投降したが、敗戦を覚悟した榎本は新政府軍の総攻撃が始まる前に旧フランス軍人を箱館港に停泊中のフランス軍艦コエトロゴン号により脱出させている。

トム・クルーズが主演の映画「ラストサムライ」はジュール・ブリュネがモデルであると言われている。

 

▲1866年日本へ出発前のフランス軍事顧問団。中央が団長のシャルル・シャノワーヌ、 前列右から2番目がジュール・ブリュネ。

▲仏軍事顧問団と榎本軍。前列左から2人目がブリュネ。その右は副総裁で陸軍奉行の松平太郎。

▲映画「ラストサムライ」のモデルと言われるジュール・ブリュネ。


逸話その4 日仏親善函館発祥記念碑

 

 船見町の実行寺境内に日仏親善函館発祥記念碑がある。

 安政2(1855)年6月、クリミア戦争(1853~1856年)で戦っていたフランスの軍艦3隻がロシア軍艦を追跡し箱館までやって来た。フランスの軍艦には多くの病人(最大約100人)がおり、治療のために入港を求めてきたが、当時フランスとはまだ条約未締結で入港上陸が不可であった。しかし時の箱館奉行、竹内保徳は人命にかかわる事故として、病人の上陸・養生を独断で許可し、フランスの人々は約3ヶ月間実行寺に滞在し、健康を回復して帰って行った。

 

 フランス海軍はこの英断に深く感謝し、彼らの持っていた知識・技能、築城書などを箱館奉行所が開設した「箱館諸術調所」教授の武田斐三郎へ伝授した。彼等のアドバイスもあり、斐三郎は日本初の洋式城郭である五稜郭を設計することができた。ちなみに、駐日フランス大使が日本に赴任後、非公式に毎回この記念碑を訪問すると言われている。

 


▲武田斐三郎

▼五稜郭公園内に建てられている「武田斐三郎顕彰碑」

 

逸話その5 武田斐三郎

 

 五稜郭を設計した武田斐三郎は、伊予大洲藩(現愛媛県大洲市)の出身で、緒方洪庵、伊藤玄朴、佐久間象山に師事し、航海・築城・兵学・蘭学を学んだ。その後、幕府に旗本格として出仕し、安政元(1854)年、堀利煕らの蝦夷地・樺太巡察に随行する。この時、ペリーの箱館来航に遭遇し、通詞として会談に臨席している。この巡察中に箱館奉行所が設置され、箱館詰めとなり機械・弾薬製造の任についた。

 箱館奉行の堀は、武田の知識・技能が卓越していることに着目し、武田を教授役とする「箱館諸術調所」を開設した。当時は江戸にも「蕃書調所」などの教育機関はあったが、箱館は唯一、理工系を教えるところであり、かつ武士の子供に限らず誰でも入校でき、授業料が無料であったため全国から優秀な若者が集まった。

 

 主な生徒には、前島密(日本の郵便制度創始者)、井上勝(長州ファイブの1人で鉄道の父、東京駅丸の内広場に銅像がある)、吉原重俊(初代日銀総裁)、山尾庸三(長州ファイブの1人、日本の工業の父、東京大学工学部創始者)、今井健輔(海軍大臣)等々がおり、箱館で学んだ彼らが明治の近代化に大いに貢献した。

 また、新島襄は斐三郎に師事するため箱館にやって来たが、新島が箱館に着いた時に、彼は江戸開成所教授として転出しており箱館にはいなかった。それで襄は大変落胆し、その後箱館から上海経由で米国へ密出国している。

 

 斐三郎は、日本初のストーブ製作、日本初の洋式溶鉱炉製作、さらに我が国初の洋式船である箱館丸を指揮し門下生と日本一周し、また亀田丸でロシアとの貿易を行っている。その多才多能ぶりから東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチとも称されている。

 五稜郭公園内に建てられている「武田斐三郎顕彰碑」は、彫像に触れると頭が良くなるという触れ込みで、訪れる善男善女がみな斐三郎の顔面をなでるので見事に光輝いている。